いかちゃんの物語

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老人と左腕

私は町外れの小さなカフェにいる

角が擦れたオーク材のテーブル、棚の上の埃の積もった小人の人形、朝の喧騒から少しばかり遠のいた薄暗い店内には窓からわずかな光が差し込んでいて、その光の中で無数の埃が海を漂うプランクトンのように浮遊している

ラジオをつけ忘れているのか、店員が洗い物をする水の音だけが響く店内で

私のとなりにいるフランス人の男は、肘をテーブルに乗せて一心不乱に携帯電話に文字を打ち込んでいる

店の奥の方の席にいる貧相な老人は、ただただ何もない虚空を見つめている

私のこの左腕は、一体誰のものだったんだろうと思う

そんなことを考えても意味はないことを、私はわかっている

もうこの左腕は既に私のものなのだ

誰も奪い去ることはできない

しかし時節、途方も無い不安に襲われる

ある日この左腕がひとりでに動き出し、私の肩を外れ、元の持ち主の元に戻ってしまうのでは無いか

そうなれば私はまた右手だけを使って生きていけばならない

その不安に襲われるたびに、私は自らの左腕を切り落とし、初めから無かったもののように右手だけで生活した方がいいのではないのかとさえ思えてくる

ティースプーンを持ち、もう片方の手でミルクの小瓶を持ち、コーヒーの入ったカップにそれを注ぐ

スプーンでかき混ぜ、口をつける

長い間考え事をしていたせいで、コーヒーは少し冷めてしまったらしい

洗い物が終わったのか、水の音が止む

フランス人の男はゆっくりと立ち上がると会計を済ませ、店を出る

老人はまだ、何もない虚空を見つめ続けている