バケツ

言葉を吐きます

僕に残されたもの

僕に残されたもの

 

僕はお風呂上がりにパンツ一枚だけでベランダに出てタバコを吸うのが好きだ
何か少しいけないことをしているような、この世界から隔離された空間に冒険に行くような、不思議な気持ちになる。

 

今は夏なので、蚊取り線香を足元に置くようにしている。
目の前を蚊取り線香の煙が通ると、まるで燻製になっているような気持ちになる。


今日もいつものように、お風呂上がりにベランダに出て、蚊取り線香に火をつけて、そのあとにタバコに火をつける。
ベランダの柵に肘を乗せてもたれかかって、ゆっくりと呼吸をする
隣の民家からシャッターの閉まる音や車のエンジンの音、テレビの音が少しずつ聞こえてくる
気づくと、セミの鳴き声があまり聞こえなくなった。空が暗くなるのが早くなった。街灯の光がより明るく見えるようになった。
ももう終わりなのだ。あんなに鬱陶しいと思っていたのに、夏の終わりはどこか寂しい。まだ、暑さは続くのだろうけど。

 

見上げるとわずかに星が見えるが、田舎の山奥で見た星空には叶わないなと思う。
人は一度素晴らしい経験をすると、それ以下のことは楽しめなくなってしまうのだ。
そうして人は大人になっていくように思う。

 

ゆっくりと、まるでワインのソムリエのように、その味を確かめるように、タバコを吸う。
最初は苦かったり甘かったり感じていたタバコが、ほとんど甘く感じるだけになった。
それはだんだんとタバコの苦味がなくなって行く感覚を舌が甘いと判断しているだけなのかもしれないし、僕の味覚がその甘さを感知できるようになったのかもしれなかった。
ただそれは、どちらでもいいことなのだ。

 

一息つき、もう一度タバコをくわえ、ふうと息を吹き出すと、太ももあたりに、チクリとした感覚がした。
見下ろすと、一匹の蚊が立ち上がる蚊取り線香の煙の中、僕の足に止まっていた。
普通は蚊に刺されても気づかないが、蚊取り線香の煙の中という蚊にとっては苦しい状況で刺したから力のコントロールができず、思い切り僕の足を刺してしまったのだろうかと、ぼんやり考える。
そして息を吐くと、その考えはタバコの煙と一緒にどこかに消えていってしまう。

 

しばらく見ていると蚊はその腹部を一切動かさなくなり、ゆっくりと暗い地面に落ちて、見えなくなった。
この蚊は子孫を残そうとして、残すことに必死になりすぎて何も残せなかったのだろうか、とぼんやりと考える。
でもその考えも、すぐに吐き出したタバコの煙と一緒にどこかに消えていってしまう。
短くなったタバコを灰皿に擦り付けて火を消すと、窓を開けて自分の部屋に戻り、ベッドに身を預ける。

 

蚊が止まっていた太ももの箇所には小さな赤い腫れができて、そこにはしばらくの間、かきむしるほどでもない小さな痒みが残った。

おれはおれになりたい

おれは実体のない幽霊みたいだ
この世に存在しているはずなのに存在していないみたいだ
昔の友人のように怒って携帯電話を地面に叩きつけることすらできない
おれは弱い
濡れた体にクーラーの風がつめたい
そんな自分を冷静に見ている自分が暖かいことがつらい
結局自分を受け入れて欲しいだけでそのために嘘を平気でつくような人間になってしまった
人を喜ばせたいなんて嘘だ
うそばっかり
他人に嘘をつかず、自分に嘘 はついてた
嫌な人間だ
嫌な人間になんかなりたくなかった
でも嫌な人間になってしまった
良い人間になれてると思っていた
他人に何かを与える良い人間になれていると思っていた
自分になにもなければ他人に与えることなんてできないのだ
おれは弱い
つめたい目で見られることは辛いことなのにそれを良いことだと思い込もうとする
おれは弱い
自分が作り上げた偶像の中に生きている
おれは弱い
自分の意見なんてなに一つない
おれは弱い
死ぬ勇気すらない
おれは弱い
海に行って貝殻の音を聞いていたい
おれは弱い
朝日が見えないめくらになりたい
おれは弱い
明日が見えない
おれは弱い
渡された千円札を律儀に財布にいれる自分が嫌いだ
おれは弱い
こどものころからなにも変わっていない
おれは弱い
最後の最後まで人の機嫌をとろうとする
おれは弱い
人に嫌われたくない
おれは弱い
すべてが嘘に見える
おれは弱い
すべてを受け入れれば自分の存在意義があると思っている
おれは弱い
誰かに見られるのがこわい
透明になりたい
透明になれば体から湧いてくる蛆虫が見えない
透明になっていろんな物事をシニカルな目で見ていたい
おれは存在していないのかもしれない
他人からのイメージを自分に投影することでなんとか生きているだけの存在なのかもしれない
人間失格という本を思い出した
楽しさと強さと儚さと夢と希望と腐れと愛と明日と濡れたアスファルトの地面と静けさと暗がりと電柱と真実と言葉とたくさんの本と人から奪い続ける何かと胸の鼓動とどこかに行ってしまったこころと

そのすべてを抱いて眠りにつけたらと思う

ミートソーススパゲティ

ミートソーススパゲティ


僕はミートソーススパゲティに聞いた
「君はナポリタンスパゲティかい?」
ミートソーススパゲティは答えた
「僕はミートソーススパゲティですよ」

僕はミートソーススパゲティにもう一度聞いた
「君は本当はカルボナーラスパゲティなんだろう?」
ミートソーススパゲティはまた答えた
「いえいえ、私は本当にミートソーススパゲティですよ。試しに、服につけてみてください。きっとそのお気に入りの白Tシャツについた汚れ、取れなくなりますから」

僕はミートソーススパゲティがスープスパゲティでもないくせに、そのあまりにもサラっとした対応にイラっとして言った
「服につけなくても食べたらわかるだろ!!お前は自分の食べ物としての価値を知らないのか!!」
ミートソーススパゲティは僕と同じリズムで言い返した
「じゃあ食べてみてくださいよ!アツアツのうちに!!早く!!!美味しく召し上がってくださいよ!!!今のうちに!!!」

その言葉に乗せられて僕は貪るように激しくスパゲティを食べた
そばやラーメンでもないのにものすごい勢いで啜(すす)って周りにはミートソースがたくさん飛び散った
もちろん僕のお気に入りの白Tシャツは汚れたし、その汚れはもう何度洗濯しても取れなくなってしまった。

絵の中の女

絵の中の女

 

ある一枚の絵があった
その絵は見るものを惹きつけるようなとても美しい女性が俯き加減で葉巻を吸っているという絵で、その絵には逸話があった
絵が愛されたと感じると、絵の中の女が笑うというものだ
その絵は描かれて5年間の間地元の町のカフェに展示されていたが、笑うと言うことが話題になり、高額で買い取られた。

 

しかしその後美術館に置かれた絵の中の女は、人々の様々な試みの中でもしかし一度も笑ったことがなかった
絵が笑うなんて迷信だと言うものもいれば、絵を愛するなど馬鹿らしいと言うものもいた。


だがその絵が描かれた町の住民は言うのだった
初老の男は
「10年前あの絵は確かに笑っていたよ。私が酒を飲みながら「君は美しい」と絵に語りかけた時、本当にあの絵の中の女は少し笑った・・・いや、微笑んだと言った方がいいかもしれない、とにかく、笑ったんだよ」と言い
青年は
「あの絵は本当に笑うんですよ。僕が小さいころ、絵の前カエルの真似をして顎を突き出したら笑ったんです。本当ですよ!」
と真実味帯びた表情で言うのだ

 

そんな噂が溢れているものだから、何とかその絵の中の女を笑わせようとあるとき、絵に愛を示そうと試みた三人の男がいた

 

一人目の男はこう言った
「この絵はきっと夜に寂しがっているのだ。だから私が一晩絵の側で寝てあげよう。そうすれば私の愛に気づき絵の中の女も笑うはずだ」
男は多額の金を美術館に支払って貸切、絵の横で一夜を過ごした。
男は確信していた、絵の中の女は笑うだろうと。
そして美術館の閉館時間から一睡もせず、絵を見つめ続けた。
しかし、絵の女は笑わなかった

 

二人目の男はこう言った
「この美しい絵は置かれている環境が悪すぎる。この絵が置かれる場所は最高の環境でなくてはならない。環境を良くすれば絵の中の女も気持ちよくなり、私の愛に気づき、笑うに決まっている」
そう言って男は美術館のこの絵が置かれている部屋に、当時ではかなり高価であった高性能な空気清浄機とエアコンを設置し、紙にとって最も良いとされる温度、湿度を保つようにし、絵が笑った瞬間をみられるようカメラを設置した。
一日経ったが絵の中の女は笑わない。
男は環境の変化にはすぐに気づかないだろうと思い、辛抱強く待った
しかしどれだけの期間が過ぎても、それでも絵の女は笑わなかった

 

三人目の男は何も言わなかった
ある日突然やってきて、絵の展示してある部屋に入るやいなや、展示品の絵を壁から取り外し、地面に叩きつけた。
割れた額縁から絵を取り出し、一度ぐちゃぐちゃに丸めたあと広げて、何度も破いた。
あまりに衝撃的すぎて誰も止めることができず唖然と見つめていた。
係員が駆けつけた時には、地面に散乱する破かれた絵と無表情で佇む男があった。
男はすぐに連行され、美術館を後にした。その時も男は何も言わずに俯いていた。

 

もう絵は本来の姿を取り戻すことはないだろう。

絵は係員によってまとめられ、その破片の全てを木箱の中に入れられた。

修復され、また美術館に展示されることになるだろうか、それとも、永遠に木箱の中で眠ることになるのであろうか

そして、誰も気づかなかったのだろうか

 

男によって破かれるとき、絵の中の女は、満面の笑みを浮かべていたことに