無気力アザラシと渡り鳥
無気力アザラシは今日も真っ白でふかふかな雪の上で眠っていた。
まだ子供のアザラシだから毛色は真っ白で保護色になっていて、アザラシは微動だにしなかったので、どんな肉食動物にも気づかれなかった。
アザラシは眠たくて眠っているのではない。現実から目をそらしたくて眠っていた。
アザラシの現実はただただ真っ白な雪原と氷河が見えるだけのつまらない世界だった。
生きることは難しいことではなかった。
毎日母親のアザラシが餌を持ってきて、それを食べているだけで生活できた。
朝、母アザラシに餌を与えられ、夜も母アザラシに餌を与えられる。
他の時間はぼーっと氷河を眺めたり、目をつむって眠るだけ。
それがアザラシの生活の全てだった。
アザラシはそういう生活が好きではなかった。
でも、それを変えようとも思わなかったし変える必要もなかった。
自分にはできないと思っていた。
そんなある日の朝、ぼーっとしているアザラシの近くに一匹の渡り鳥がやってきた。
鳥はアザラシに言った。
「こんなところでどうしたんだい」
「よく気づいたね。でも眠いんだ。放っといてくれ。」
「おいおい、狩りはしないのかい。」
「母さんが獲ってきてくれる。もういいだろう?この時間が好きなんだ。氷河を眺めてさ」
「嘘だろう。君は退屈な顔をしてるよ。本当は自分の力で何かを成し遂げたい。そうだろう。氷河の下にはシャチもいるし、動けばシロクマに襲われるかもしれない。でも、それを凌駕するほど美しい、広い世界が広がっているよ。狩りに出ようよ。」
「黙ってておくれ。僕にはそんな能力はないんだ。こうやって横になって生きてきたあアザラシに何ができる?もう手遅れだよ。一度だって泳いだことがないんだよ。現実的に無理だよ。本当に、放っといてくれよ」
そう言われると渡り鳥は去っていった。
アザラシは拗ねた顔をして、その日も目をつむって一日中眠った。
暗くなると、母アザラシがアザラシの横に来て静かに魚を置いていった。
アザラシは何も言わず、横目で魚をチラリと見てまた目をつむった。
次の日の朝、渡り鳥がまたやってきた。
「やあ、昨日ぶりだね。」
「なんだ。またかよ。放っといてよ」
「待て待て、そんなんじゃない。僕の話を聞いておくれよ。昨日ね、あの後に少し暖かい地方まで行ってきたんだ。ほら、これはそこで手に入れたものなんだ。」
そういうと渡り鳥は羽毛の中から真っ赤な赤い球体を取り出した。」
「なんだいそれは」
「これはね、果実というんだよ。寒い地方では実ることがないから、君は初めて見ただろうね。これを獲るときは大変だったよ。その木には”猿”っていう動物がいたんだ。そいつに狙われながら間一髪のところで手に入れたんだよ。危なかったな。食べてみるかい?」
「いいよ。自分で獲ったんだろう?自分で食べなよ」
「そうかい?君にと思って獲ってきたんだけど」
「余計なお世話だよ」
「じゃあ、いただくよ」
そういうと渡り鳥は赤い果実をムシャムシャと食べた。
「また来るからね」
そう言って渡り鳥は果実の残りかすをアザラシの横に置いて飛び立っていった。
アザラシはしばらくその”残りかす”を見つめて、少しだけ体を動かしてそれをペロリと舐めてみた。
味わったこともないような甘みが口の中に広がった。
でも、アザラシにとってはその甘みが嫌だった。自分の中の何かを壊される気がした。
「こんなもの、いらない。」
アザラシはそうつぶやくとまた、眠りについた。
眠りにつくまでの間果実の甘みがずっと口の中に残っていて、その甘みに対してどうにか嫌悪感を抱こうと努めた。
次の日もまた、渡り鳥がやってきた。
渡り鳥のくちばしにはたくさんの糸が絡まっていた。
「いやー、大変だったよ。」
「どうしたんだいその口の周りのは」
「人間の釣り餌に食いついちゃったんだよ。いやー危なかったな。何とか暴れて糸を切ってきたけど、このザマだよ」
「ほら、君はそうやっていろんなものに手を出すからこんなことになるんだよ。」
「うん。そうだね。でも、いいんだ。そっちの方が楽しいだろ。」
「そっか」
アザラシは渡り鳥のことが少し羨ましくなった。
自分の知らない世界をたくさん知っていて、できることならこの渡り鳥になりたいとさえ思った。
「ところで、人間って知ってる?」
「知らない」
「奴らは面白いよ。いろんなものを作り出す。そして、それについていつも悩んでるんだ。新しいものができたらまた悩んで、また作って、その繰り返しさ。本当に面白いよ」
「どうしようもない奴らだね」
「僕もそう思うよ。ところで、ちょっとこの糸取ってくれない?」
「いいよ」
アザラシは渡り鳥の口の周りの糸を咥えて、取った。
「ありがとう。君がいてくれて助かったよ」
「そうかい」
「それでね、また君にって思って、これを獲ってきたんだ。」
そういうと渡り鳥はまた羽毛の中からものを取り出した。
出てきたのは赤と青の貝のような物体だった。
「これはね。人間が作ったもので、楽器というんだ。カスタネットというらしい。」
「楽器?」
「そうさ。これを叩くと、ほら」
そういうと渡り鳥は貝のような物体の赤と青の部分を合わせて音を出し始めた。
カンカンと軽快な音が雪原に響いて、アザラシはその響きにうっとりとした。
「なんだか楽しい気持ちになるね」
「だろう。君にあげるよ」
「ありがとう」
「それでね。君に大切な話があるんだ。」
「なんだい」
「僕は今から、ここからずーっと東の方に旅に出るんだ。」
「だからどうしたの?」
「1年後にまたこの場所に戻ってこようと思う。また君に会いに来るよ」
「勝手にすればいいじゃないか。僕はまたここで寝てるよ」
「そうだね。君の勝手にすればいい」
そう言うと渡り鳥は飛び立っていった。
アザラシはその姿を見えなくなるまで眺めていた。
渡り鳥が見えなくなっても空を眺め続けた。気づけば、青空が星空に変わっていった。
次の日の朝まで、アザラシは星空を眺めながら考えた。
自分のことや世界のこと。渡り鳥のこと。人間のこと。果実のこと。
ずっと考えた。何もできないアザラシだったが、考えることだけは得意だった。
そして翌朝、波が穏やかな朝だった。
アザラシはカスタネットを”ヒレ”の間に落とさないように大切に入れて、氷河から海へ飛び込んだ。
飛び込む瞬間、カスタネットの赤と青の部分がぶつかって、雪原に軽快な音を響かせた。