いかちゃんの物語

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ホットココアと猫

僕は町を歩く。
 
すれ違う
同じような顔をした老いぼれたち。
早足の夜の女。汚い足を曝け出して。
お互いがお互いをファッションの一部として認識しあっているようなカップルたち。
ベビーカーを押す若い女
イヤホンをした女子高生
マスクをしたにきびだらけの男
 
 
すれ違った瞬間に彼らの顔は忘れている。
それは、彼らが他愛も無い存在だからではない。ただすれ違っただけの通行人だからではない。
どんなに彼らの顔を覚えようとしても、僕の無意識的な何かが少しでもそれを些細なことであると判断しているかぎり、その事柄をすっぽりと忘れてしまう。
些細なことじゃないんだぞと自分にいい聞かせどれだけ覚えておこうとしていても、何か他の、例えば小鳥のさえずりが気持ちよいなあなんて一度でも思ってしまうと、何かを覚えておこうとしていたことすら僕の頭の中のメモリーからすぅと消去されてしまって、後には何も残らない。
 
いつもそうだ。人の顔だけじゃない。名前だってそう
見たもの、感じたことやそのときの気持ちも。
そんなことですら、少しの時間を過ぎてしまうと何もかもなかったことのように忘れてしまって、ぽつんと一人不安定で情けない自分が取り残されていることに気づきただただ心のなかで静かに嘆く。
僕は自分の無意識が憎く。しかし、愛しているといってもいい。
苦しめられたこともあるし、きっと、助けられたこともあるだろう。
苦しめられたことを覚えているのは、僕の無意識が自分のことを嫌いになりなさいと僕に投げかけているのかもしれない。
助けられたこともあると思っているのは、今僕がここに生きているということがその何よりの証明であろうと思っているからだ。
どちらにせよ、そうやって僕は生きてきたのだ。
 
 
 
ふと、突如として自分の中に潜む暴力的な衝動に駆られることがある。
それはふとしたきっかけで僕の心の中に現れ、ものすごいスピードで肥大化し最終的には一時的に僕の心を支配するほどの強い衝動となる。
 
公園の、人に慣れた鳩に近づく。
ふと、何かの種が僕の中で芽生えて、蹴ってみたいという衝動に駆られる。
蹴られた鳩はどうするのだろう。
驚いて羽ばたき逃げ出すのだろうか
半狂乱になってその場を駆け回るのだろうか
頭を狙えば、動かなくなるのだろうか
わからない。
 
僕は決して実行に移せない。
そういう自分が嫌いだからだ。それはまるで小説やゲームに出てくる猟奇的犯罪に走る少年を思わせるからだ。
自分はそんなんじゃないと思いたい。もっと何か高い精神性のうえになりたつ美しさのようなものを内に秘めていて決してそんな衝動に支配されたりはしないんだ。
だから僕はいつもその衝動を心の奥底にあるタッパーの容器に無理やり詰め込み。衝動が激しく動くのを押さえ決して出てこれないように容器の蓋をしめたあとゆっくりと深呼吸する。
よかった。僕はマトモなんだ。
 
そういったあとには必ず甘いものを食べたくなる。
チョコレート菓子であるとか、ケーキであるとか。
甘いものを食べると不思議と心が落ち着いて自分が取り戻せたかのような感覚がする。 
 
 
 
その日の夜、トモダチと遊んで終電を逃した僕が人気のない道を歩いていると、いかにも犯罪者のような雰囲気をした男に出会う。
いかにも犯罪者のような雰囲気というのは、肌が乾燥していて浅黒かったり、どこか目がうつろであったりそんな目で周りをきょろきょろしていたりといったことで決して何か根拠があるわけではなかったが、僕は直感で「あやしいな」なんて思う。
そして直感通り、見るからにか弱そうな僕を見たその男は周囲をきょろきょろと見回して誰もいないことを確認しながらゆっくりと僕のほうに近づいてきて、こう囁く「兄ちゃん、命が惜しかったら有り金全部よこしなよ。」
 
やらなきゃやられる。直感。
僕は迷いもなく握りこんだ拳を無警戒な男の喉にぶつける
力はないけど人の殴り方は知っている。
男はごほっごほっと咳き込んで喉を押さえ僕から離れようとする。
「てめ・・・ごほっ」こちらをにらみつける男。
 
反撃を恐れた僕は男に近づいて足をかけ、片手を男の顎の下にかけて持ち上げ、男を倒す
ふわりとコンクリートの地面に倒れる男。
僕は倒れた男の喉を踏みつける。男はそれを手で払おうとするが追いつかない。
咳き込み、なんとか逃げ出そうともがく男。
蹂躙される男の姿に僕は興奮を覚える。警戒してないからこんなことになるんだよ。悪いのはお前だ。
人を見た目で判断してんじゃないよ
ばかだなあ。ほんとにさ。ははは
僕は自分の心が暴力的な衝動に支配されていることに気づかない。
これは正当防衛であって暴力ではないのだ。決して。だからどんなことをしても許される。許してくれる。
笑いながら僕は何度も男の喉を踏みつける。
何度も
何度も
何度も
何度も踏みつける。
男の咳き込む音と僕の息を切らす音が静かな道に響く。冬の乾いた空気が赤くなった僕の頬を優しく冷やしていく。僕はまだ動ける。男もまだ動ける。
まだだ。まだ起き上がれるだろう。起き上がれなくなるまで踏みつけてやる。背中を向けても無駄だぞ。今度はつま先で喉を蹴りつけてやるからな。
そうやってまた何度も何度も踏みつける。
 
どのくらい踏みつけただろう。
はじめはもがいていた男の体はいつの間にか動かなくなっていて、僕が踏みつけているものは人間ではなくゴムの塊みたいなものなんだと思えてくる。
僕は男の形をしたゴム人形からゆっくりと目を離して、近くのコンクリートの地面の、街灯の光とその光が届かない間をうつろな目で見ながらゆっくりと深呼吸をする。
 
脅されたから仕方なかったんだ
これは正当防衛なんだ
あいつが襲ってきたから僕は怖くなって、こうするしかなかった。
仕方がなかった
こんなこと本当はやりたくなかったんだ。
でも怖かった
怖くて怖くて仕方がなかった
分かるだろう?この恐怖
怖いと人は逃げ出したくなるんだ
でも、逃げ出せないんだ。
逃げ出せば僕が殺されるんだよ
だから仕方がなかったんだ
これが普通なんだよ
仕方ないんだ
やりたくてやったんじゃない
確かにやってるときはなんとなく楽しいような・・・そういう気持ちはあったけどさ
でもそれは自分を守るために僕が自分自身の中に作り出した思い込みみたいなもんでさ
そう思わないと反撃されるこわさ、みたいな。決して暴力を振るう自分に酔ってたとかそんなんじゃなくてさ・・・
だから、仕方ないよ
 
こういうこともあるさ。
そう、こういうことだってある。
人生なんだからさ。
よかった。
いま、生きてる。
 
ほら、白い息。
ぼんやり光る街灯が夢の世界みたいできれいだろ。
 
 
ふぅと静にため息をつき、息を落ち着かせた僕は、ゆっくりと歩き出す。
道路沿い、バス停留所にあるベンチに腰掛ける。
少しすると火照ったからだが冷えて寒くなってきて、近くの自動販売機でホットココアを買う。
缶を持ってそのぬくもりに身を任せた後、ちょっとだけぬるくなったココアを一気に飲み干す。
このくどいくらいの甘さがたまらないんだ。
脳内に快感物質が放射されて、落ち着いておだやかな気持ちになる。
ヤク中やアル中もこんな気持ちなんだろうな。
そう考えるとさ、人間ってのはみんな何かの中毒者なんだと思うよ。本人が気づいてなかったり、それが中毒だと認知されてないだけで。
どいつもこいつも現実逃避するための何かにすがってて、それで心の平安を保って生きてる。
他の中毒者をバカにして、自分は違うんだと思い込んでさ。バカばっかだよ。もちろん、僕も。
 
ははっと目を細めて笑う僕の顔を走る車のライトが一瞬だけ照らす。
たいした都会でもないのに、空を見上げても月どころか星も見えない。
雲がかかっているのだろうか。 
 
通りがけの野良猫が、僕を見る。懐いてくれるかな、と思いながら出来る限りのやさしい声で野良猫に「おいで」と言う。
野良猫はちらりとこちらを見た後すぐ走りだし、闇に消えていく。
僕は猫の消えてゆく姿を見届けてベンチから立ち上がると、か弱く見えるよう、背中を丸めて、少しうつむき加減でまたゆっくりと歩き出す。