バケツ

言葉を吐きます

水滴の様相

人っていうのは循環器だからさ、自分が何か相手に与えたときに、それを返そうという気持ちがない人とは関わっちゃダメだよ。

大雨の中信号待ちで停車する車内、過去誰かにそう言われたことを思いだした。いつの話だったか。

 

フロントガラスにペンキをぶちまけたみたいに沢山付いた水滴を、車のワイパーがたった一回の挙動でサッと消し去っていく。

クリアになった視界にボタボタ水滴が落ちてモザイクがかかり始めると、少ししてまたワイパーがそれを取り去る。

学校の先生が、黒板に書いた字をサッと消すみたいだと思った。先まで何か意味のある言葉だったものが、一瞬で薄ら白い跡になる。

何もなかったところにまた言葉を足して、また消す。でも、本当にその言葉は完全に消えてしまうのだろうか。

そしてもしかすると、ワイパーに消された水滴にもことばがあったのだろうか。

 

ワイパーの動きを何度か見るうちに、目の前の信号が青に変わった。

 

アクセルを踏むと、車が動き出す。タイヤが水を跳ねる千切れるような音が聞こえる。反対車線のマフラーをいじった車であろう、雄牛のように怒り狂ったような騒がしいエンジン音がそれをかき消す。

いつもなら顔をしかめてうるさいなと言っていただろう、でもなぜか、不思議と怒りは湧いてこない。

 

さっき、いつか言われた言葉を思い出してから体の様子が変だ。今ここに初めて生まれ落ちたみたいな。

卵から産まれたプランクトンが、海原に放り出されるみたいな、だけど、初めから泳ぎ方は本能で知っている。そんな感覚。

一体今までの僕はどこへいったのだろう。

 

後部座席には飼い犬が乗っている。お座りをして運転席と助手席の間から前をじーっと見ている。僕はそれをバックミラーでちらりと見た。

ぼーっとはしていられない。彼を動物病院に連れて行かなければならないのだ。

 

飼い犬の何かがおかしい。そのことに気づいたのは一昨日の晩のことだった。

いつも家に帰ると玄関を開けた途端尻尾を振りながら飛びかかってくるのに、来ない。少し澄ました顔で、待っていましたよ。という顔をしているだけだ。

また、いつも喜んで催促してくるおやつをあまり催促して来なくなった。遊ぶ頻度が少し減った。それは次の日も同じだった。

急に何があったのだろう。見た目や食事、トイレなどには大きな変化がないから大丈夫だろうけど、もしかしたら何かの兆候かもしれない。

迷った末、動物病院に連れていくことにした。車の中でもいつもに比べ彼はおとなしく、それがまた僕を少し心配させた。

 

しばらく運転して、左手に動物病院が見えたので左折し、駐車場に前から入る。

病院の前の5台ほどしか車が止まらない小さな駐車場に車を停めると、犬はなにかを察したのか車の座席の下の方にゴソゴソ隠れようとしていた。

運転席のドアを開けて外に出て、後部座席のドアを開き頭をいれておいでと話しかける。

僕が彼を強引に抱き抱えようとすると、低い声でウーという唸り声をあげた。こういうのは勢いが肝心だ。はいはいと言いながら一気に両脇から持ち上げる。噛んではこない。

ぼくは背中から下半身がびしょ濡れだったが、そのまま小走りで動物病院に駆け込んだ。

 

ドアの上側についている鈴がチリンと鳴る。ドアが閉まるのと同時に、雨音が遠ざかる

 

動物病院の待合室にはクラシックオルガンで演奏されたBGMが流れていた。どこかで聞き覚えのある曲だが、思い出せない。白い壁と白い床、壁際に設置された椅子。

また、自分以外にもペットの診察を受けにきている人が一人いた。リュックサックくらいの大きさの籠を持っている。きっと中には猫か何かがいるのだろう。

 

入り口のすぐ近くにある受付台の前に立って、書類仕事をしている受付の女性に話しかける。

「予約していた沖野ですけど。」

こういうときに第1声を出すのはなぜか緊張してしまう。声が裏返ったりしないか。昔、学校の教室で何かを発表するときに失敗した経験があるからかもしれない。

「こんにちは。沖野さんですね。診察券をお出しください」

ゆっくりと落ち着いた、聞いていると眠くなってきそうな心地よい話し方。僕は犬を片手で抱えたままポケットから診察券を出して受付に渡した。

受け取ると受付は変わらずの落ち着いた声で、ありがとうございます、お掛けになってお待ちください。と言った。

もう少しこの声を聞いていたいと思った。ありがとうございます。ありがとうございます。その声を頭の中で何度か反復した。不安な気持ちが和らいだ気がする。

 

緊張して縮こまった犬を抱きかかえたまま座ってしばらく待つと、奥から獣医の先生が出てきて「沖野さんどうぞ」と言った。先に診察を待っていた女性がちらりとこちらを見た。

 

診察室に入り、診察台に犬を置いて座らせると、先生は僕の目を覗き込んで

「今日はどうされました?」と言った。僕は少し考えてできるだけ少ない言葉で伝えようとする

「一昨日から少し様子が変で。食事やトイレは問題ないんですけど、元気がないというか。」

なるほど、と頷いて、先生は犬の方に向き直る。

「ちょっと見て見ますね。」

そういって犬の体をゴソゴソと触り始める。

お腹のあたりから下半身、目を開いて瞼の裏を見る。そして口元。

犬は不安そうに横目で僕の顔を見ている。

 

「んー。特に見た感じは異常ありませんね。レントゲンも撮って見ましょうか」

「お願いします」

脇を抱えられて、別室へ連れていかれる犬。

しばらくすると、また同じように抱えられて診察室に戻ってきた。

壁に吊るされたモニターにレントゲンが映し出される。

「これまた異常ないですね。」

 

少し間をあけて、率直な疑問をぶつける。

「じゃあ、どうして急に大人しくなったんでしょうか。」

「うーん、ただの気分の問題だと思います。」

「はあ、気分」

「犬だって人間と一緒で、変わりますからね。ずっと同じなんてことはないんです。少しずつ変わっていって、ある日突然一気に変わったように見える。それは、異常ではない。犬にとって飽きてしまったり、何かが必要なくなったということです。沖野さんもそういうこと、何か心当たりありませんか?」 

 

少しぼくは考えた。

 

「どうだろう。あるかと言われればあるような気がします。」

「犬は歴史的に人間とものすごく近いところで生きてきました。だから、沖野さんに起きる内情の変化が、犬に起きることだってありますよ。」

「そうですか」

それもそうだと思った。

何を勘違いしていたのだろう。普遍性などどんなものにもないのだ。

 

少し気を楽にして犬の方を見た。

犬は僕とは打って変わって、まだ不安そうに僕の目をじっと見つめている。

その犬の目は子犬を受け取りに保健所に行った時のままの目。

瞳の中に宇宙を宿すような、いつも何かを教えてくれているような。そんな目。

そして、その中に僕は映っている。

 

犬を抱きかかえて待合室に戻ると、診察待ちの女性がまたちらりとこちらを見た。

犬も終わったことを察したのか緊張がほぐれたようで、体の強張りがなくなっている。

 

受付からの呼び出しを待つ間、大きなガラスの窓越しに外を眺めることにする。

 

窓の外は相変わらず大雨が降っていて、風も出てきたみたいだ。

街路樹が大きく揺れている。ひゅうひゅうと少し音がする。

歩道を1人の男の人が、傘を両手でしっかり持って前傾させながら歩いている。

傘は風の影響で、潰れるように変形している。

 

停めてあるぼくの車は、目を覚ますことのない動物のように雨に打たれても何も言わずそこに佇んでいる。

 

病院の窓ガラスに貼りついた雨の大粒の水滴がそのガラス面を、絶えず形を変えながらクラシックオルガンのBGMに合わせて踊るように、くねくねと下へ下へ流れてゆく。

 

「沖野さん、お待たせしました。」

受付の女性のゆったりした声が待合室に響く。

ぼくはその声を頭の中で少し反芻して、受付の前に立つ。

 

支払いをカードで簡単に済ませると、病院のドアを開け犬を濡らさないように前屈みになった。

そしてそのまま、小走りで車の運転席のドア目掛けて雨の中を進む。

頭や背中には雨の感触、そして腹部に犬の温もりを感じながら。