バケツ

言葉を吐きます

残滓 1

ある匂いがある。
その匂いはとても懐かしい匂いで、嗅ぐと、心の奥にある栓がポンと音を立てて外れたかのように懐かしい気持ちがフラッシュバックして胸のあたりが暑くなり、その暖かさに涙が出そうになったり締め付けられるようになったりする
そして時間とともにその温もりは消えていき、嗅いだ匂いで自分がすごく懐かしい気持ちになったことを覚える。
だが、それがどんな気持ちだったのか、どんな匂いを嗅いでそうなったのかはどうしても覚えることができない。
思い出そうとしても、まるでそれは初めから僕の中に存在していない感覚であるかのように匂いも温もりもすっかり忘れてしまっていて、後には冬の山に取り残されたように立つ枯れ木みたいに寂しい気持ちだけが残る。
でも僕はそんな匂いも、寂しい気持ちも、好きな気がしていたのだ。


その日もいつものように目覚ましの音で目覚めた。薄く目を開けてベッドサイドのデジタル時計を見ると、モスグリーン色の文字盤に6:30という文字が浮かんでいる。
まだ6:30だ。6:45に起きて急いで歯磨きと着替えを済ませれば7:10分の電車には間に合うからもう15分眠れるじゃないか。うちは駅に近いのだと思い、僕は目を瞑る。ふわふわとした心地の中目を瞑ると、眼下には待ってましたとばかりに夢の世界が広がっていた。


その夢の世界で僕は、追われていた。僕の胸の高さくらいの大きさでピンク色をした、ナメクジみたいな化け物にだ。ものすごいスピードでそいつは追ってくる。体から出た触手の先端についた目玉をぶらぶらと揺らしながら追ってくる。
僕が走っているのは見覚えがある気がする夜の駅のホームで、運動場にあるような明るい照明で照らされていて、ホームの上には何本もの四角い柱が立っており、僕はそれをかいくぐりながら、線路に落ちないように気をつけながら逃げていた。
ホームの先を見てもどこまでも続いているかのように長く、終点が見えない。線路からは緑色の手が無数に生えていて、僕を手招きしている。僕は、足がもつれそうになりながらも走る。ものすごいスピードで灰色の地面が後ろに流れていく。逃げ切ろ。逃げ切ろ。逃げ切るんだ。
そして、走っていることが当たり前のように思えてきた時、その”慣れ”のせいで余裕が生まれたのか、ふとした疑問が頭をよぎった。そういえば、僕はなぜこいつから逃げてるんだ・・・?
無限に続く駅のホームそのもののように途方もない疑問が僕の頭に浮かんだ気がして、振り払おうとしてもその疑問はサンダルに染み付いた汗の跡みたいに僕の頭の中に張り付いて離れなかった。
その後どれくらい走り続けただろうか、流れてゆく風景が全く変わらないので自分が止まっているのか走っているのかもわからなくなりかけた頃、突然10m手前で駅のホームの床がなくなった。それは急にストンと床が落ちただとか、どこかに吸い込まれていったのではなく”なくなった”のだ。
驚いて急停止した僕はその先を覗き込む。そこは深淵と呼べるべき暗さで、いかなる光も寄せ付けないほど完全な暗さをもつ空間だった。覗き込むと心の奥底で不安という胎児が僕の心を蹴っているような感覚に襲われた。
胸に手を当て後ろを振り返ると、ナメクジはもう僕を追ってきていなかった。それどころか姿もどこにもなく、まるでナメクジに追われていたことなんて初めから存在しなかったかのように夜の駅のホーム静寂の中には汗だくになった僕がポツンとひとり立っていた。
そこで僕は気づいた。ナメクジに捕まらなければいけなかったのだ。あいつは僕を助けようとしていたのだ。
気づくと僕の頬を大粒の涙が伝っていた。


そして、その涙が駅のホームのアスファルトに落ちて染みを作った瞬間、同時に今までの全てが夢だということにも気づき、目が覚めた。
急いで時計を見るとデジタル表示で6:55と表示されている。ベッドから飛びおり、這うように洗面所に向かう。
洗面所の水道から出てきた水を両手ですくってぶつけるように顔を洗い、その後はまるで支度をする機械になったかのように全身をフル稼働させ、着替え、歯を磨く。
遅刻だと思うと心臓の鼓動が聞こえるくらい激しくなり、呼吸が浅くなる。顔が熱くなり、ぬるりとした汗が額を覆う。
鍵もかけずにアパートの部屋から飛び出し、二階から一気に階段を駆け下りる。

僕が今のマンションの営業会社に就職したのは、5年前の夏だ。
大学を卒業し、新卒で入社した食品の会社を2ヶ月で辞めた。覚えることが多すぎて、僕には合わなかったのだ。世間的には僕は根性のないやつかもしれないが、それでも構わない。人の目は気にせず、自分が思ったように生きる。それが僕のポリシーだった。
そして始めた営業の仕事はシンプルだった。結果が全てだが、結果さえ出れば後はどうでもいいのだ。

一つ遅れて乗った電車はほぼ全ての席が埋まっていたが奇跡的に一人分空いていて、砂漠でオアシスを見つけたらこんな気持ちになるんだろうなと思いながら、汗だくの体に張り付いたネクタイを緩めながら席に崩れるように座った。横のおばあちゃんは少し迷惑そうに僕に密着しないように避けた。

少し汗臭いのかもしれない。

人は自分の匂いというものには全く気付かないもので、それが時に人に嫌われる原因になったりする。だが、今は気にしているような時ではない。それに、おばあちゃんも加齢臭消しの香水の匂いきついですよと心の中で悪態をつきながら、深くため息をつきながら目を瞑る。何か、懐かしい匂いがする。僕の汗と、隣のおばあちゃんの香水の香りと乗客の体臭が混ざって何か僕の記憶の琴線に触れていることを強く感じた。

何かを思い出しそうだ、何か、懐かしい景色・・・。アスファルトの地面、照りつける太陽、僕は寝そべってアリの行列を眺めている。近所に住む女の子が僕を呼んでいる。

僕は右手に何かを持っている・・・

 

 

このままだと寝てしまいそうなことを気づきはっと目を開けると、何かがおかしいことに気づいた。
きっと気のせいだと僕はもう一度目を瞑り心の中で三回「ここは夢なのか?」と自分に問いかけてから、またゆっくりと開き、周囲を見回した。


その光景を見た時僕はここがまだ夢の中なのかそれとも現実なのか区別をつけることができなかった。
しかし何度瞬きしても、目をこすっても変わらない光景に僕はそれを現実だと認めざるを得なかった。
叫びたい気持ちと恐怖で高鳴る鼓動をを抑えて、深呼吸をして、もう一度ゆっくりと周りを見渡した。

周囲にいる乗客全てが、今朝の夢に出てきたナメクジの姿になっていたのだった。

一陣の風が吹く

一陣の風が吹く

僕はそれに身体を任せて走る


一陣の風が吹く

僕はそれに流されて走る


一陣の風が吹く

僕は風を感じなくなる


一陣の風が吹く

僕は風を呼べるようになる


一陣の風が吹く

風を感じたい人々が僕を呼ぶ


一陣の風が吹く

僕は風が何なのか気づく


一陣の風が吹く

僕は風を必要としなくなる

アメーバの日々

気づくと僕は透明なアメーバだった。周りにいたアメーバは赤や黄色、青の色をしていて透明なのは僕だけだったから、周りにいるアメーバは僕と仲良くなんてなろうとしなかった。
色の違うヤツとはみんな関わろうとしないから、ミクロの世界はとても厳しい世界なのだとその時知った。

じゃあ、透明なアメーバの仲間を作ろうと思い、僕らはアメーバだから無性生殖で増殖できるはずなのだけれど、透明なアメーバである僕にはどうしてもそれができなかった。
と言っても、僕はもともとアメーバではなくもっとこう、知性溢れる生き物だったような気がするから、アメーバとして増殖したい気持ちもあるけど、知性ある生物に戻りたい気持ちの方が強かった。
知性ある生物に戻りたいと思うと同時に色のついたアメーバたちは何も考えずどんどん増えていって、アメーバとしての僕はより一層孤独になっていった。

色のついたアメーバの中にはもともと透明なアメーバだったと話す者もいて、そのアメーバたちは口々に僕に言った。
「あなたも染まっちゃえばいいじゃん、そうすれば増殖できるよ。私が染めてあげようか?」
それは優しさからくる言葉なのかそれとも自分の色のアメーバを増やしたい気持ちからくる言葉なのか僕にはわからなかった。
だけどその言葉を受けるたびに何か不快な臭いのする泥のようなものが細胞の核から湧き出てくるような気がして、僕は言うのだった。
「遠慮しときます。僕は透明で大丈夫なんで」

そうすると色のついたアメーバたちは無口で僕の元を去っていく。
僕にはそれが当たり前だったのだからなんとも思わなかったし、だけど、そういう対応をされるたびに少しずつ僕の心が死んでゆく感覚がしていた。

そうやって僕はアメーバとしてこの水中をひたすら生きてゆくのだろうか
そう思いながら水中を漂っていると、僕は、あるものに出会った。


僕と同じ、透明なアメーバだった。
初めは細胞核だけが浮いているように見えて何かわからなかったのだけれど、よく見ると僕と同じ透明なアメーバだと気付いた。
でも、少しだけ灰の色が混ざっているようだった。
灰のアメーバは僕に気づいたらしく、話しかけてきた。

「やあ、こんばんは。君にも色がないのかい」
「うん。僕と同じようなアメーバ、初めて見た。」
「僕もだよ。よかったらその辺にいるミカヅキモを見に行かない?暇つぶしにちょうどいいんだ」
「いいよ」

そうやって僕らはミカヅキモを見に行った。
ミカヅキモは綺麗な緑色をしていたし名前の通り三日月のような形をしていて、その集団がユラユラと揺れる姿は月がたくさん浮かぶ架空の星空を眺めているみたいに幻想的だった。

灰のアメーバが呟いた。
「僕らもミカヅキモだったらもっと楽しく生きれたのかなあ」
細胞核がユラユラと揺れていてそれはまるで泣いている人が口を震わせているようにも見えた。
「なんて、冗談だよ」
僕は何も言わずにまたミカヅキモの方を見た。

少しして、灰のアメーバの細胞核が揺れなくなったのを見て、僕は思い切って聞いてみた。
「どうして僕らのようなアメーバは仲間を増やすことができないんだろう」
「それはね、何ものにも染まろうとしないからさ。何ものにも染まろうとしないやつにミクロの世界は厳しいんだよ」
「そうなんだ」
「じゃあ、僕らって何者なんだろう?」
「僕らは何者でもないし、何者にもなれないんだ。もともと知性ある生き物だった時の記憶があるだろう?それを持ち続ける限り、僕らは孤独で生きていかなきゃいけないんだ。」
僕はこの灰のアメーバは色んな答えを知っていてすごいなと思った。
もっとこのアメーバと一緒にいたいと思った。このアメーバと一緒にいればもっと自分がどうすればいいのかわかる気がした。

そう思っていると、灰のアメーバが言った。
「透明のアメーバ君、僕たちはずっと友達だ」
「うん」
「一緒に知性ある生物に戻ろう」
「うん」
「何年か、何億年後のことになるかもしれないけど」
「うん」
「だから、僕らは一緒に知性ある生物に戻って、二人で文章を書くのさ。アメーバに体験記って伝記だ。」
「いいね。それは」
「歴史に名を残すぞ」

僕の心はどこか満たされたような気持ちになった。

それから何度も灰のアメーバと遊んだ。
色んな微生物を見に行ったり、色んなところに行った。

灰のアメーバとは気持ちが分かり合えていたから、僕は一人じゃないんだと思えた。
ずっとこのまま一緒なのだと、そう思っていた。


そしてまたある日、灰のアメーバに僕は会いに行った。
しかし、その日会った灰のアメーバは僕が知っている灰のアメーバとは全然変わってしまっていた。
灰のアメーバは、真っ黒なアメーバになっていた。
細胞核なんかどこにも見えなくて、ただただ真っ黒なアメーバになっていた。
アメーバというより油の塊か、はたまたこの世の憎悪の全てを凝縮した塊に見えた。

「どうしたんだ、、、灰のアメーバ君」
「奴らにやられてしまったんだ・・・クソやつらめ・・・殺してやる殺してやる」

そんな言葉を吐いている灰のアメーバを初めて見た僕は怖くなって、真っ黒なアメーバから逃げ出した。
真っ黒なアメーバは聞こえるか聞こえないかくらいの掠れた声で「待ってくれよ」
と言ったが、僕はその懇願するような声すら憎く感じて何も言わずに逃げた。

あんな真っ黒なアメーバ、僕の知ってる友達じゃない・・・キモチワルイ

僕は真っ黒なアメーバともう会わないようにと思って遠くに逃げた。


それからどれくらい経ったのだろう。
灰のアメーバを失ったことで、果たしない孤独に襲われている自分に気付いた。
どうして僕はあの時は真っ黒なアメーバを助けてやらなかったのかと自分を責め始めた。

本当に僕の大事な友達だったのに。

でももう灰のアメーバは僕の眼の前に姿を現わすことはないのだ。
今では彼が何をしているのか、生きているのかすら知るあてがない。

また会えたら二人で知性ある生物に戻れるのかなあとばかり考えながら日々が過ぎてゆく。

今でも僕はたまにミカヅキモを見に行く。
薄らと自分の細胞に、青い色がついてきた気がする。
知性ある生物だった頃の記憶は、もう無い。