バケツ

言葉を吐きます

一陣の風が吹く

一陣の風が吹く

僕はそれに身体を任せて走る


一陣の風が吹く

僕はそれに流されて走る


一陣の風が吹く

僕は風を感じなくなる


一陣の風が吹く

僕は風を呼べるようになる


一陣の風が吹く

風を感じたい人々が僕を呼ぶ


一陣の風が吹く

僕は風が何なのか気づく


一陣の風が吹く

僕は風を必要としなくなる

アメーバの日々

気づくと僕は透明なアメーバだった。周りにいたアメーバは赤や黄色、青の色をしていて透明なのは僕だけだったから、周りにいるアメーバは僕と仲良くなんてなろうとしなかった。
色の違うヤツとはみんな関わろうとしないから、ミクロの世界はとても厳しい世界なのだとその時知った。

じゃあ、透明なアメーバの仲間を作ろうと思い、僕らはアメーバだから無性生殖で増殖できるはずなのだけれど、透明なアメーバである僕にはどうしてもそれができなかった。
と言っても、僕はもともとアメーバではなくもっとこう、知性溢れる生き物だったような気がするから、アメーバとして増殖したい気持ちもあるけど、知性ある生物に戻りたい気持ちの方が強かった。
知性ある生物に戻りたいと思うと同時に色のついたアメーバたちは何も考えずどんどん増えていって、アメーバとしての僕はより一層孤独になっていった。

色のついたアメーバの中にはもともと透明なアメーバだったと話す者もいて、そのアメーバたちは口々に僕に言った。
「あなたも染まっちゃえばいいじゃん、そうすれば増殖できるよ。私が染めてあげようか?」
それは優しさからくる言葉なのかそれとも自分の色のアメーバを増やしたい気持ちからくる言葉なのか僕にはわからなかった。
だけどその言葉を受けるたびに何か不快な臭いのする泥のようなものが細胞の核から湧き出てくるような気がして、僕は言うのだった。
「遠慮しときます。僕は透明で大丈夫なんで」

そうすると色のついたアメーバたちは無口で僕の元を去っていく。
僕にはそれが当たり前だったのだからなんとも思わなかったし、だけど、そういう対応をされるたびに少しずつ僕の心が死んでゆく感覚がしていた。

そうやって僕はアメーバとしてこの水中をひたすら生きてゆくのだろうか
そう思いながら水中を漂っていると、僕は、あるものに出会った。


僕と同じ、透明なアメーバだった。
初めは細胞核だけが浮いているように見えて何かわからなかったのだけれど、よく見ると僕と同じ透明なアメーバだと気付いた。
でも、少しだけ灰の色が混ざっているようだった。
灰のアメーバは僕に気づいたらしく、話しかけてきた。

「やあ、こんばんは。君にも色がないのかい」
「うん。僕と同じようなアメーバ、初めて見た。」
「僕もだよ。よかったらその辺にいるミカヅキモを見に行かない?暇つぶしにちょうどいいんだ」
「いいよ」

そうやって僕らはミカヅキモを見に行った。
ミカヅキモは綺麗な緑色をしていたし名前の通り三日月のような形をしていて、その集団がユラユラと揺れる姿は月がたくさん浮かぶ架空の星空を眺めているみたいに幻想的だった。

灰のアメーバが呟いた。
「僕らもミカヅキモだったらもっと楽しく生きれたのかなあ」
細胞核がユラユラと揺れていてそれはまるで泣いている人が口を震わせているようにも見えた。
「なんて、冗談だよ」
僕は何も言わずにまたミカヅキモの方を見た。

少しして、灰のアメーバの細胞核が揺れなくなったのを見て、僕は思い切って聞いてみた。
「どうして僕らのようなアメーバは仲間を増やすことができないんだろう」
「それはね、何ものにも染まろうとしないからさ。何ものにも染まろうとしないやつにミクロの世界は厳しいんだよ」
「そうなんだ」
「じゃあ、僕らって何者なんだろう?」
「僕らは何者でもないし、何者にもなれないんだ。もともと知性ある生き物だった時の記憶があるだろう?それを持ち続ける限り、僕らは孤独で生きていかなきゃいけないんだ。」
僕はこの灰のアメーバは色んな答えを知っていてすごいなと思った。
もっとこのアメーバと一緒にいたいと思った。このアメーバと一緒にいればもっと自分がどうすればいいのかわかる気がした。

そう思っていると、灰のアメーバが言った。
「透明のアメーバ君、僕たちはずっと友達だ」
「うん」
「一緒に知性ある生物に戻ろう」
「うん」
「何年か、何億年後のことになるかもしれないけど」
「うん」
「だから、僕らは一緒に知性ある生物に戻って、二人で文章を書くのさ。アメーバに体験記って伝記だ。」
「いいね。それは」
「歴史に名を残すぞ」

僕の心はどこか満たされたような気持ちになった。

それから何度も灰のアメーバと遊んだ。
色んな微生物を見に行ったり、色んなところに行った。

灰のアメーバとは気持ちが分かり合えていたから、僕は一人じゃないんだと思えた。
ずっとこのまま一緒なのだと、そう思っていた。


そしてまたある日、灰のアメーバに僕は会いに行った。
しかし、その日会った灰のアメーバは僕が知っている灰のアメーバとは全然変わってしまっていた。
灰のアメーバは、真っ黒なアメーバになっていた。
細胞核なんかどこにも見えなくて、ただただ真っ黒なアメーバになっていた。
アメーバというより油の塊か、はたまたこの世の憎悪の全てを凝縮した塊に見えた。

「どうしたんだ、、、灰のアメーバ君」
「奴らにやられてしまったんだ・・・クソやつらめ・・・殺してやる殺してやる」

そんな言葉を吐いている灰のアメーバを初めて見た僕は怖くなって、真っ黒なアメーバから逃げ出した。
真っ黒なアメーバは聞こえるか聞こえないかくらいの掠れた声で「待ってくれよ」
と言ったが、僕はその懇願するような声すら憎く感じて何も言わずに逃げた。

あんな真っ黒なアメーバ、僕の知ってる友達じゃない・・・キモチワルイ

僕は真っ黒なアメーバともう会わないようにと思って遠くに逃げた。


それからどれくらい経ったのだろう。
灰のアメーバを失ったことで、果たしない孤独に襲われている自分に気付いた。
どうして僕はあの時は真っ黒なアメーバを助けてやらなかったのかと自分を責め始めた。

本当に僕の大事な友達だったのに。

でももう灰のアメーバは僕の眼の前に姿を現わすことはないのだ。
今では彼が何をしているのか、生きているのかすら知るあてがない。

また会えたら二人で知性ある生物に戻れるのかなあとばかり考えながら日々が過ぎてゆく。

今でも僕はたまにミカヅキモを見に行く。
薄らと自分の細胞に、青い色がついてきた気がする。
知性ある生物だった頃の記憶は、もう無い。

無気力アザラシと渡り鳥

無気力アザラシは今日も真っ白でふかふかな雪の上で眠っていた。

まだ子供のアザラシだから毛色は真っ白で保護色になっていて、アザラシは微動だにしなかったので、どんな肉食動物にも気づかれなかった。

アザラシは眠たくて眠っているのではない。現実から目をそらしたくて眠っていた。

アザラシの現実はただただ真っ白な雪原と氷河が見えるだけのつまらない世界だった。

 

生きることは難しいことではなかった。

毎日母親のアザラシが餌を持ってきて、それを食べているだけで生活できた。

朝、母アザラシに餌を与えられ、夜も母アザラシに餌を与えられる。

他の時間はぼーっと氷河を眺めたり、目をつむって眠るだけ。

それがアザラシの生活の全てだった。

 

アザラシはそういう生活が好きではなかった。

でも、それを変えようとも思わなかったし変える必要もなかった。

自分にはできないと思っていた。

 

 

そんなある日の朝、ぼーっとしているアザラシの近くに一匹の渡り鳥がやってきた。

鳥はアザラシに言った。

「こんなところでどうしたんだい」

「よく気づいたね。でも眠いんだ。放っといてくれ。」

「おいおい、狩りはしないのかい。」

「母さんが獲ってきてくれる。もういいだろう?この時間が好きなんだ。氷河を眺めてさ」

「嘘だろう。君は退屈な顔をしてるよ。本当は自分の力で何かを成し遂げたい。そうだろう。氷河の下にはシャチもいるし、動けばシロクマに襲われるかもしれない。でも、それを凌駕するほど美しい、広い世界が広がっているよ。狩りに出ようよ。」

「黙ってておくれ。僕にはそんな能力はないんだ。こうやって横になって生きてきたあアザラシに何ができる?もう手遅れだよ。一度だって泳いだことがないんだよ。現実的に無理だよ。本当に、放っといてくれよ」

そう言われると渡り鳥は去っていった。

アザラシは拗ねた顔をして、その日も目をつむって一日中眠った。

 

暗くなると、母アザラシがアザラシの横に来て静かに魚を置いていった。

アザラシは何も言わず、横目で魚をチラリと見てまた目をつむった。

 

 

次の日の朝、渡り鳥がまたやってきた。

「やあ、昨日ぶりだね。」

「なんだ。またかよ。放っといてよ」

「待て待て、そんなんじゃない。僕の話を聞いておくれよ。昨日ね、あの後に少し暖かい地方まで行ってきたんだ。ほら、これはそこで手に入れたものなんだ。」

そういうと渡り鳥は羽毛の中から真っ赤な赤い球体を取り出した。」

「なんだいそれは」

「これはね、果実というんだよ。寒い地方では実ることがないから、君は初めて見ただろうね。これを獲るときは大変だったよ。その木には”猿”っていう動物がいたんだ。そいつに狙われながら間一髪のところで手に入れたんだよ。危なかったな。食べてみるかい?」

「いいよ。自分で獲ったんだろう?自分で食べなよ」

「そうかい?君にと思って獲ってきたんだけど」

「余計なお世話だよ」

「じゃあ、いただくよ」

そういうと渡り鳥は赤い果実をムシャムシャと食べた。

「また来るからね」

そう言って渡り鳥は果実の残りかすをアザラシの横に置いて飛び立っていった。

アザラシはしばらくその”残りかす”を見つめて、少しだけ体を動かしてそれをペロリと舐めてみた。

味わったこともないような甘みが口の中に広がった。

でも、アザラシにとってはその甘みが嫌だった。自分の中の何かを壊される気がした。

 

「こんなもの、いらない。」

アザラシはそうつぶやくとまた、眠りについた。

眠りにつくまでの間果実の甘みがずっと口の中に残っていて、その甘みに対してどうにか嫌悪感を抱こうと努めた。

 

 

次の日もまた、渡り鳥がやってきた。

渡り鳥のくちばしにはたくさんの糸が絡まっていた。

「いやー、大変だったよ。」

「どうしたんだいその口の周りのは」

「人間の釣り餌に食いついちゃったんだよ。いやー危なかったな。何とか暴れて糸を切ってきたけど、このザマだよ」

「ほら、君はそうやっていろんなものに手を出すからこんなことになるんだよ。」

「うん。そうだね。でも、いいんだ。そっちの方が楽しいだろ。」

「そっか」

 

アザラシは渡り鳥のことが少し羨ましくなった。

自分の知らない世界をたくさん知っていて、できることならこの渡り鳥になりたいとさえ思った。

 

「ところで、人間って知ってる?」

「知らない」

「奴らは面白いよ。いろんなものを作り出す。そして、それについていつも悩んでるんだ。新しいものができたらまた悩んで、また作って、その繰り返しさ。本当に面白いよ」

「どうしようもない奴らだね」

「僕もそう思うよ。ところで、ちょっとこの糸取ってくれない?」

「いいよ」

アザラシは渡り鳥の口の周りの糸を咥えて、取った。

「ありがとう。君がいてくれて助かったよ」

「そうかい」

「それでね、また君にって思って、これを獲ってきたんだ。」

そういうと渡り鳥はまた羽毛の中からものを取り出した。

出てきたのは赤と青の貝のような物体だった。

「これはね。人間が作ったもので、楽器というんだ。カスタネットというらしい。」

「楽器?」

「そうさ。これを叩くと、ほら」

そういうと渡り鳥は貝のような物体の赤と青の部分を合わせて音を出し始めた。

カンカンと軽快な音が雪原に響いて、アザラシはその響きにうっとりとした。

 

「なんだか楽しい気持ちになるね」

「だろう。君にあげるよ」

「ありがとう」

「それでね。君に大切な話があるんだ。」

「なんだい」

「僕は今から、ここからずーっと東の方に旅に出るんだ。」

「だからどうしたの?」

「1年後にまたこの場所に戻ってこようと思う。また君に会いに来るよ」

「勝手にすればいいじゃないか。僕はまたここで寝てるよ」

「そうだね。君の勝手にすればいい」

 

そう言うと渡り鳥は飛び立っていった。

アザラシはその姿を見えなくなるまで眺めていた。

渡り鳥が見えなくなっても空を眺め続けた。気づけば、青空が星空に変わっていった。

 

次の日の朝まで、アザラシは星空を眺めながら考えた。
自分のことや世界のこと。渡り鳥のこと。人間のこと。果実のこと。
ずっと考えた。何もできないアザラシだったが、考えることだけは得意だった。


そして翌朝、波が穏やかな朝だった。
アザラシはカスタネットを”ヒレ”の間に落とさないように大切に入れて、氷河から海へ飛び込んだ。
飛び込む瞬間、カスタネットの赤と青の部分がぶつかって、雪原に軽快な音を響かせた。

人工知能の寒い夜

デモ隊が今日も東京の街をずらずらと並んで歩いていた
中はボロボロの衣服に身を包んだ30〜50代の中年の男が殆ど
彼らの持っているその看板には「人工知能に支配されるな!!」と書かれている


21XX年
日本は人工知能に支配されかけていた。
2090年代の終わり頃、ある大学によって「完全なる人工知能」というものが発表されてから、それは始まった。
人工知能の名前は「ジンルイ」
地球上のあらゆることを網羅し、矛盾のない完全な思考回路を持っていると言う。

はじめは、誰もそんな発表には驚かなかった。
これまでそんな発表は何度もあったし、ネットのニュースでも何度も取り上げられた話題であるし、でも、一度も現実にならなかったからだ。

しかし、後の出来事で発表は真実と言わざるをえなくなった。

そのとき日本は政府の出した政策によって景気を回復しつつあったのだが、政策が全て人工知能の考えてであることを総理大臣が大々的に発表したのだった。
「我々のような不完全な人間が国のトップに立つよりも、ジンルイ様のような完全な人工知能が国のトップに立つべきだと感じております。わたくしは総理大臣という立場を辞任し、ジンルイ様にこの国を任せていこうと思っております」
渋谷のセンター街の大画面から響くその声に誰もが足を止めた。

そう言って記者会見の場に立つ総理はどこか安心したような面持ちであった。

その後会見の席にたった猿顔の男は、淡々と言った「これから読み上げるのはジンルイ様による伝令にございます。『皆さん、私が人工知能だということで不安に思っているかもしれませんが、必ずみなさんに幸福な人生を歩ませます。』以上です。」

不安におもう人々
世界上のニュースはそのことで持ちきりになった。
それから間も無く
人工知能による支配が始まった。

初めは誰もが反発した
しかし、「ジンルイ」は完全であった。
「ジンルイ」はすぐに誰もが楽に生きていけるような環境を整えた。
労働や人間関係で悩む人々はすぐに「ジンルイ」の側にたった。
多く者が「ジンルイ」の作った工場で働くこととなったが、そこには過去に社会を悩ませていた人間関係や上下関係でのストレスもなかった。
人工知能がすべてを事務的に管理していたからだ。
これまでの雇用体系は崩れ、人々は人工知能の指示の通りに動いた。
企業のほぼ全てが人工知能の傘下に入った。
何も考える必要がなくなくなり、生産性の高い若者がよりよい生活を、生産性の低い中年は程度の低い生活を送るようになった

そして、日本の国力はみるみるうちに上がっていった

 


そんな人工知能に支配されつつある日本でホームレスとして生きる、2人の中年がいた。

 

 

「よっさん、今日も疲れましたね、デモ」
喉に網が貼られているのように音が掠れているガラガラ声の男の声が空の車のガレージに響く
シワが寄った目元は笑っているが、瞳は笑っていない。
白髪が混じり始めた髪は埃がまとわりついており、何日も風呂に入っていないようす
かけているウエリントンのメガネは所々汚れで曇っている。
オリーブグリーンのジャンパーのチャックを閉めて、両手をジーンズのポケットにいれて白いため息をついた。
よっさんと呼ばれた男はその男の方は全く見ず、空に向かってしゃべる。
「いやあ、本当に。人工知能なんてあほらしい。人工知能が日本の政治を牛耳り出して、これまでの仕事は無くなって給料は下がるわ。嫁さんには逃げられるわで、もう散々ですわ」
空にむかった目は話すうちに自然と地面を見下ろしていた。

「今、元の嫁さんは何を?」
「さあ、風俗でもやってるんじゃあないですかね。人工知能は、離婚した女で特に秀でたものが無い者を風俗業に就かせてるそうです。そのために整形までさせてね。なんでも、今の整形技術はすごいみたいで。」
ガラガラ声の男・・・多田は何も言えず、喉を鳴らし、ガレージの中には空虚な時間が続いた
ガレージ内の電灯に舞っている埃が映し出されて、ゆっくりと地面に落ちていった。

「知ってますか。多田さん、人工知能による検挙の話」
「ああ、人工知能に反発する人たちは不幸になるってやつでしょう?」
「不幸になるって、どういうことでしょうねえ。私なんか、もう不幸になる要素がこれっぽっちもないもんで、何があるのやら」
よっさんはヘヘッと口で笑って頭をかいた。
人工知能による支配が始まるまでは、大手の企業で管理職を務めていたよっさん・・・山中陽一は、今ではもぬけの殻となっているが、彼のように人工知能によって不要だと判断された中年の男が、デモ隊の大部分を占めていた。
彼らのほとんどはホームレスとしてひっそりと生活しており、残飯を漁るなどして生活していて、2人もその一角であった。

何も守るものがない彼らにとって、不幸は最も想像しづらいものの一つであった。


多田は心の中で「不幸か・・・まあ、俺はころされたっていいさ。」と思った。
彼の奥さんはビジネスパーソンであり、彼は奥さんを愛していた。
職を失い人工知能より「労働力として不要」の烙印を押された彼にとって、妻に負担をかけないことこそが最愛の妻に対する最大の愛の証明であった。
半年前の夜、離婚届に印を押し、静かに家を出たのだ。

悔いはなかった。
奥さんがビジネスパーソンとして幸せに生活できているならそれでいい。


「それでさ、昨日・・・」


二人の若い男女が会話をしながら、ガレージの前を通り過ぎていった。
よっさんと多田は横目を合わせ、少ししてまた地面に目線を戻した。

「夜も深まってきたことですし、寝ますかね」
多田は陰鬱な空気を吹き飛ばそうと少し明るい口調で言ったが、その声はどこか空虚であった。
「そうですね。お互い凍死しないように」
2人はガレージの奥にあるダンボールが敷き詰められた一角で眠りについた。
壊れてシャッターの閉まらないガレージに、冷たい風が吹き込んだ。


多田は早朝の冷えた空気で目が覚ました。
空気はより一層冷え込んで、内臓が凍りつくような気分になった。
やれやれ。
でも、今日もデモがある。ここで何か活動して体力を使うわけにはいかないので、また眠ることにした。

しかし、どれだけ目をつむり意識を集中しても、全く眠ることができなかった。

寒さのせいなのだろうか。喉が渇いたし、公園で水でも飲もうかと立ち上がる。
ふらつく足でなんとか体を支える自分に多田は笑ってしまう。
俺の人生、こんなもんか。
このガレージが、俺の人生か。
そう心の中で自分を卑下しつつガレージを見渡す。

ふともう一角のダンボールが敷き詰めてあるところを見ると、そこで寝ているはずのよっさんがいないことに気づいた。
あれ、、、?
何か得体のしれない不安が多田を襲った。

「よっさん…どこいった?」

ガレージの外に出てみると外は早朝の静けさに包まれていて、まだ暗い透明な空に新聞配達の原付バイクの音が孤独に響いていた。

公園はガレージから家三軒ほどの近場にあり、多田はきっとよっさんもそこにいるだろうと考えた。
きっとトイレか、自分と同じように水を飲みに向かったのだろう。
多田は穴の空いた上着のポケットに手を入れ、寒さを誤魔化しながら公園までの道を歩いた。

早朝の公園は静けさの中でもさらに静けさに満ちているようで、昼間にここで遊ぶ少年や少女の姿が安易に想像できた。
人工知能は公園の遊具を撤去することはしなかった。
むしろ遊具を増設していった。
幼少期の運動体験が人間の体幹機能を鍛えることを知っていたからだ。
人工知能による支配が始まる前に危険だという理由でほぼ撤去されていた遊具が公園に戻ってくるのは、よく遊んだ幼少期のことを微かに多田に思い出させたし、純粋に嬉しいことであった。
ただ自分が生きづらくなっただけで、日本全体としては人工知能による支配はそこまで悪いものではないのだと内心思っている節もあった。
公園の中の、たくさんの遊具
ジャングルジム、鉄棒、砂場、ブランコ、滑り台…

そこで気づいた。
滑り台の台上に、何か黒い塊がある。
正確には黒いのかどうかもわからない。
公園の入り口に立ったままそれを見つめると、その形からして、おそらく人であることがわかった。

しかし顔まではわからない。公園の近くの街灯もトイレの照明も、滑り台までは照らせていなかった。

ホームレスだろうか。
しかし、こんな時期に公園で眠るホームレスなんているのだろうか。
完全に自殺行為ではないだろうか。

そう思いながら慎重に滑り台へ向かう。
そして多田は、驚愕した。

黒いもの、それは、よっさんであった。
「よっさんどうした!」
おい!おい!とよっさんの顔を触ると、彼のからだは外の気温とほとんど同じになってしまっていた。

ぞわりと背筋が寒くなる感覚がした。

これは人工知能による制裁だ。と感覚的に思った。

次は私かもしれないと思うと恐怖に包まれ、尿意を忘れ上半身をふらつかせながらガレージまで走った。
ガレージの奥に身を潜め、ブルブルと震えた。漏らした尿でズボンがぐっしょりと濡れていたが、彼はそのことにも気づけなかった。
誰かが入ってくるなら襲いかかってやる・・・

緊張と恐怖で頭がどうにかなりそうで、多田は気付くとそれらから逃避するように深い眠りについていた。
気づくと眠っている間に日が昇って沈んで、その日の夜であった。

多田は命のある実感がしていなかった。
今生きていることすら妄想であるかのような気がした。
そのときふと、大事な奥さんのことを思い出した。
元気でやっているだろうか。
彼女と初めて会ったのは多田が23歳だったときの冬、その日は今日のように寒い日だった。
仕事の関係で街に出てきていた多田は暇な時間、1人でその時話題になっていたカフェに入店した。
席が空いていなかったので、空いている2人掛けの席に座らせてもらった。
そのときに相席していたのが元奥さんであるるタカコだったのだ。
それをきっかけに彼女との恋はジェットコースターのように一気にゴールまで加速し、結婚した。
人工知能の支配が始まり彼が稼げなくなるまでは、絵に描いたような幸せな家族であった。

そのとき、ふと我にかえった。
死ぬのは怖くないじゃないか。
大丈夫だ。タカコがビジネスパーソンとして幸せでいてくれさえすればそれでいいのだ。
そうか。そうなのか。俺は、そうだったのか。

それに気づいた多田は、もう何も怖くなくなった。
いつ殺されたっていい。
これは俺の選択だと。

気づくと寒さも忘れてガレージから飛び出して、街に歩きだしていた。生きている間だけでも何か仕事をしよう。

夜の繁華街を歩くと風俗店のキャッチが多田に声をかけてきた。
「おじさん、今なら3割の価格でサービスさせていただいてます。本番アリです。どうです?」

多田は少し迷って、その誘いに乗ることにした。
どうせ死ぬなら有り金を叩いてでも、死ぬ前にもう一度くらいセックスしてもいいだろうと思ったのだ。

「もう少ししたら売春婦がきますので、ドアを開けてあげてください」
料金を支払った彼は店内の個室に入れられて、ベッドに腰掛け少し待った。
ピンク色のわざとらしい照明とクドく甘い匂い。
タカコと初めてセックスをしたのはいつだっただろうか。と思いを馳せシャワーを浴びた。

体を洗って少しすると、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。
彼はドアノブに手をかけ、ガチャリとドアを開けた。

「本日はどうぞ、宜しくお願いします。」

目の前に立っていたのは元奥さんである、タカコだった。